my childhood

veganism、創造性、反虐待が3本柱です。

独裁者のこども時代に共通するパターン



ミラーが見出した、歴史上の独裁者のこども時代に共通するパターン:極端な残忍さ、親の理想化、暴力の賞賛、苦痛の否定、
彼らがかつて経験した仕打ちを否定(自分が受けた仕打ちを「あれは苦痛でもなんでもなかった」「あの仕打ちのおかげでわたしは一廉の人間になった」と思い込むということでしょうか)。意識下に残る虐待の記憶が一つの或いは複数の国、民族全体への残虐行為に向かわせる。
被虐待体験が自然で無垢だったこどもを暴君、怪物へと変えていく。無垢であったから尚更理不尽な仕打ちによって混乱し錯綜してしまう。こんなことをされなくてはいけない自分は一体何なのか。

親がこどもに与える屈辱(大人はそれを屈辱とさえ考えていない場合が多いのではないでしょうか。「これも必要な躾である」「こどもにはこれくらいやっておかないと」と、顧みもしないのでは。)が生む連鎖をミラーは挙げています。

旧来の子育て、教育(体罰も含め)によって受けた苦痛、屈辱を否定し、感じないようにする(まだ非力で保護が必要な発達段階の初期にあるこどもが自分に何が起きているかを直視していたら正気ではいられないでしょう)。
→苦しみをまともに感じていては生きていけないため無感覚になり自己を潜伏させ生き延びる。自身の感情がわからなくなる(のちに親として子に接するようになったときに尚)。
→感情の遮断によって、新しい情報から学ぶ、それを有効に使う、不要になったものを削ぎ落とすことがむずかしくなる。
→感情は閉じていてもわたしたちの身体は屈辱の体験を完全に記憶している。ここで心と身体が分離してしまう。(自分が何をしたかったのかわからなくなるのでしょう。そういう状態で生きていくのは非常に辛いはず。)
→自分がされたことを自分のこどもにしてはいけないと、意識的に努力するする大人は稀でわたしたちの多くがこども時代されて非常に辛かったことを幼い世代に対し繰り返す。

かつて自分が受けた仕打ちに耐えて生きていくために自ら感情を遮断してしまったからこの連鎖が可能になる。
わたしたちの導き手になってくれるはずの情動、勘が機能しない。「好き嫌い」によるシンプルな意思決定ができない。無感覚のトンネルから抜け出すために自分は一体どこへ向かえったらいいのかわからない。
こうして悪循環がおき、「教育」が繰り返される。


勿論すべての大人がそうではありませんが、「余りに当たり前すぎて意識されることもない」行為が悪しき連鎖を生んでいないでしょうか。

日本の学校、組織でうまくやっていくには(そこで褒められ、重用され、歯車として機能していくには)「感情の遮断」が必要で
それに成功した人が「残虐の喜び」と呼んでもいいようなことを薄ら笑いを浮かべながら淡々とやってのける大人になる。
彼らはもう取り戻せない自分の過去に相手を間違えて復讐しているかのようだ。
自分も欲しくてたまらなかった、自ら望んで手放した訳ではない自由を、
当たり前の権利として許されて育ち、手放さずに生きている自由で自己中心的(肯定的な意味で)な、健康な感情を持った人たちに残虐の喜びをもって接することで。

「伝統的な」教育が疑問を差し挟まれることも無く続いてきたために
多くの人がその犠牲になっている社会だと思われてならない。

何故社会がこのように冷酷で無慈悲でコミュニケーション不全の人間であふれているのか、
単純に「教育」のせいではとわたしは思う。


ミラーの本の英訳からの抜粋、以前読んだ山下公子さんによる邦訳からの引用にわたしの思ったことを付け加え書いています。
酷い文ですが、上達を待っているよりへたでもすぐに伝えたほうがいいと思い、書くことにしました。
どうか拙文、お許しください。

The Truth Will Set You Free: Overcoming Emotional Blindness and Finding Your True Adult Self

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