my childhood

veganism、創造性、反虐待が3本柱です。

誤解を恐れずに言えば

友人に虐待の話ができる人がいた。嘘偽りない本当の気持ちを話してくれてこちらも話せる人だった。その彼女の言葉にこれ以上ない恩を感じている。

彼女自身の体験を話してくれた時のことだった。母がなくなった時、ほっとしてた。父が亡くなった時、嬉しかった。そう語ってくれた時(そんな気持ちは元被虐待児なら当たり前のものだけど)、はっきりと言葉に出してくれたことで、そして親族からそんなことを言うものではないと言われても私の気持ちは気持ちなんだと堂々と彼女が話してくれたお蔭で、その日から軽快に生きていけるようになった。

それでいいんだ、と心の中で何度も繰り返した。

彼女のその時の言葉のお蔭で、虐待の狂気からかなり自由になることができた。

それでいいんだ、不謹慎だとか不穏当だとかいう次元の問題じゃない、だけどそう思えない人もいる。恨むことも憎むことの自分に許さない人が被害者から加害者にやすやすと転向してしまうんだと思う。

元被虐待者も今その狂気の中で生きている人も、「加害者を許さない」ことを自分に許していい。許さないことが即暴力的な反撃に繋がるわけじゃない。繋がるわけでもないのに自分に許さない人は、許されなかった環境と、生まれつき邪悪だと言う周囲の決め付けと絶縁して、せめて内面の「憎む自由」くらい自分に許すべきだ。それが出来ないと苦しみは終わらない。

私は、「否定的な感情は悪」、「自分を傷つけた相手をも許しなさい」という、「気持ち悪いスピリチュアル」が、絶望的に傷ついた人を更に傷つける。「お母さん(或いはお父さん)を許さない限り、あなた自身救われない」っていうやつ。

きれいで完璧な状態で生まれてきたのに謂れのない虐待を受けた上に憎むことも許されないとなると、自ら死を選びたくなってしまうかもしれない。打たれた上に相手を許せなんて、人をそこまで追い詰めるくらい残酷なことだ。

「許しなさい教」を絶やさなければ、親心と言えば何でも許される荒んだ社会も改まらない。だからお叱りを受けるかもなどと考えず、怒って、憎んでいい。許さなくていいと自分自身に言ってあげればいい。そして今までよく頑張った、つらかったでしょう、あとは好きに生きなさい、とも。

傷を受けた側が加害者に気遣いまでするのも、「教育」によるプログラミングが働いているからでしょう? 断ち切らなきゃ。いい子になっても和解しても、自分の本当の感情に従って行動できないなら虐待が続いているのと変わらない。

 アリス・ミラーが自分の夫による実子への虐待を黙認していた、我が子に冷酷に接した母親だったという事実を、その息子さんの手記を読んで知った。

 

親ってなんだ?だったらますます、自分を頼みに、心に従って生きていくだけでいい。そう思う。そう思う人間で溢れたら社会はいきなり無秩序になるか?寧ろお互いの自由を認め合う優しい社会になるんじゃないか。そう思えてならない。

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