my childhood

veganism、創造性、反虐待が3本柱です。

永山則夫、『聖母の御子』



永山則夫とカタロニア民謡の『聖母の御子』がセットになって頭に入っている。
彼の一生に思いを馳せるとき、この曲を思い出す。

無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)

無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)


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創造性、情緒の安定、精神の平衡

情動は飾りではなく、高度に構築された、存在を賭けた戦いのための導き手である。
アントニオ・ダマシオ

ミラーを読むようになったのは。創造性、感受性、自己表現欲求を正当にも大切に扱ってくれているからだった。
そのミラーが名前を挙げていたので、ダマシオも読むようになった。
「デカルトの誤謬」が翻訳されている(訳・田中三彦 筑摩書房刊)。

創造性は多大なる情緒の安定と精神の平衡があって初めて発揮できる。たしか「こどもの絵」のなかでミラーはそう言っていた。
だからこれが指標になる。
創造性を保全したまま多くの人が大人になれる社会が健全なんだ。
創造性を軽んじるどころか、蔑みあざ笑う社会がどんなに住みにくいか
感覚を失った人間にはわかるまい。

「子ども」の絵―成人女性の絵画が語るある子ども時代

「子ども」の絵―成人女性の絵画が語るある子ども時代


村八分になるとわかっていて

秋田杉を運んだ人たち―詳記 東北林業の文化・労働史 (みちのく・民の語り)

秋田杉を運んだ人たち―詳記 東北林業の文化・労働史 (みちのく・民の語り)

出稼ぎ―少年伐採夫の記録 (みちのく・民の語り)

出稼ぎ―少年伐採夫の記録 (みちのく・民の語り)

野添憲治さんは10代の頃、親御さんと一緒に伐採の仕事のため山に入って
そこで冬を越すという体験をされている。
まだ著述家になられる前、少年時代も飯場の事務所で筆記具をもらって
とにかく字を書いたり、本を出す具体的な計画もないのに
地域の歴史を知る方に話を聴きにいったり(野添さんは秋田の方)
されていた。

表現したいという「衝動」を自然にもっていらっしゃたんだ。


伐採の仕事では、豪雪の中に冬の間留まらなくては行けない、
冬の雪の中で亡くなってしまった人は放置するという暗黙の掟があり、
(そういう掟をつくったりそれに従ったりするのは、底から冷たく意地悪で、めんどくさがりな人間だ)
従わなければ村八分になる。
野添さんと一緒に働く伐採夫が亡くなってしまったとき
野添少年はおとうさんと二人で
そうせずにはいられず
亡くなった人を埋葬しにいった。
あとで村八分になるのとわかっていて。


人生のどこかで真実に触れ、それが尊いと感覚的に知ったり
何をやろうとも信頼して見守って肯定してくれる大人がそばにいたりすれば
成長してしきたりや周囲の視線に雁字搦めになって、感情を殺して冷酷な行いに加担することもなくなる。

恐怖心が最大の原動力で
仲間はずれにされない、いじめられないために生きている人にはそれはわからない。

追記
野副憲治さんは今年4月8日に亡くなっていらっしゃいます。このお名前は筆名だったのですね。
2000年頃つけたラジオで、野副さんのインタビューを聴いた時に、
浮ついたヘラヘラデレデレした大人でいるのは止めようとの大分昔の決意を思い出して
我が身を振り返って、自分の生き方で生きようと、反省したのでした。
偶然聴いたあのインタビューでちょっと、人生が変りました。

本心では望んでない

The Body Never Lies: The Lingering Effects of Hurtful Parenting

The Body Never Lies: The Lingering Effects of Hurtful Parenting

The Body Never Lies第Ⅱ部第8章より。
回転木馬のそばを通りかかり、乗っていたこどもたち〜2歳くらい〜の表情をミラーが観察して

この種の遊具のスピード、次に何が起きるか解らない不安はこの年齢の子達にとって自然なものではなく
こども達を乗せて得られるお金のために大人がやっているだけのことなのだろうとミラーは感じ取る。
ここでミラーは、まだ幼いのに性的虐待を受けた子の気持ちはどんなだろうと考えるのだが。



〜〜〜


身体に拒否反応が表れても、本心では望んでないとわかっていても
商業目的で刷り込まれた偽物の趣味を、そうと認めないまま長年過ごして
自分自身にむりに自分で選んだと思い込ませている。
そんなことは余りにも遍満しているのでもう疑問も持たなくなる。

押し付けられたものでない、本来の欲求を確認できたとき、
今まで掴んで離さなかった大半のものと縁が切れてしまうのをさびしく感じるかもしれない。
でもほんとうの欲求にしたがって生きていける喜びの大きさに比べたら
余分なものを削ぎ落として荷物を降ろした直後の寂しさ、つまらなさくらいなんでもない。

刷り込まれたままでいる、騙されていてあげることは
自分を傷つけることだ。
そのままにしておくのはずっと自分を傷つけつづけるっていうことだ。

沈黙の世界

沈黙の世界


味方になり、やり直しを見守ってあげる人がいたら

秋葉原の、10年前の大阪の、あのつらい事件、あの行動が何によって引き起こされたか
彼らが幼い頃からどんな目に遭ってきたか
人生の途中で完全に彼らの側に立って味方になり、やり直しを見守ってあげる人がいたらどうなっていたか
彼らの親たちが子に対してやってきたことをなぜもっと知らしめ、突き詰めればそれしか原因が無いのだともっと世間に広めないのか
このまま大人の無知が続いたらどうなるかをもっと考えてほしい。

あまりに不自然な「許し」

The Body Never Lies: The Lingering Effects of Hurtful Parenting

The Body Never Lies: The Lingering Effects of Hurtful Parenting

The Body Never Lies 第Ⅱ部第13章The Right to Awarenessを読みました。

親との和解を画策されない、親の立場になってみるように勧められないことによって
どれだけの人が精神のバランスを取り戻せることか。
社会も所謂セラピストも大半が親の側に立ち、クライアント一人ひとりの歴史を理解する姿勢を欠いているとしたら
完全に自分の側に立ってくれる人や言葉に幸運にも遭えた時どれだけ安心するだろう。

前者のような一般的なセラピストによる諭し、宥めをミラーははっきり否定している。
理解されるべきは親でなく、他者に顧みられることのなかった、誰にも気づいてもらえなかった自身の内部、「幼かった頃のわたし」であり、
自己の幼児期に起きたことから目を背けたり相手の期待に沿うように解釈したりするべきではない。
と。




ミラーの、読者への助言は地に足がついた、読むことで安心感を得られる、
味方になってくれる、温か味のある、現実的なものなので
そしてなにより読者に事実をストレートに伝えてくれているので
ある種のセラピストによる「ヴィジュアライゼーションによって理想的な親子関係を現実に起ったそれと置き換えましょう」
「許さないとあなた自身が解放されない」「否定的な思いを駆逐することであなたの内面がキレイになる」
などのすり替えや理想化の言葉を読むと、それらが非常にマヌケに響く。
後者は、効果があっても有効なのはごく短期ではないか。
ほんとうのことから目を背けず、自分に起ったことをごまかし無しに知るために付き添ってくれる言葉じゃないから空しさがつきまとう。

独裁者のこども時代に共通するパターン



ミラーが見出した、歴史上の独裁者のこども時代に共通するパターン:極端な残忍さ、親の理想化、暴力の賞賛、苦痛の否定、
彼らがかつて経験した仕打ちを否定(自分が受けた仕打ちを「あれは苦痛でもなんでもなかった」「あの仕打ちのおかげでわたしは一廉の人間になった」と思い込むということでしょうか)。意識下に残る虐待の記憶が一つの或いは複数の国、民族全体への残虐行為に向かわせる。
被虐待体験が自然で無垢だったこどもを暴君、怪物へと変えていく。無垢であったから尚更理不尽な仕打ちによって混乱し錯綜してしまう。こんなことをされなくてはいけない自分は一体何なのか。

親がこどもに与える屈辱(大人はそれを屈辱とさえ考えていない場合が多いのではないでしょうか。「これも必要な躾である」「こどもにはこれくらいやっておかないと」と、顧みもしないのでは。)が生む連鎖をミラーは挙げています。

旧来の子育て、教育(体罰も含め)によって受けた苦痛、屈辱を否定し、感じないようにする(まだ非力で保護が必要な発達段階の初期にあるこどもが自分に何が起きているかを直視していたら正気ではいられないでしょう)。
→苦しみをまともに感じていては生きていけないため無感覚になり自己を潜伏させ生き延びる。自身の感情がわからなくなる(のちに親として子に接するようになったときに尚)。
→感情の遮断によって、新しい情報から学ぶ、それを有効に使う、不要になったものを削ぎ落とすことがむずかしくなる。
→感情は閉じていてもわたしたちの身体は屈辱の体験を完全に記憶している。ここで心と身体が分離してしまう。(自分が何をしたかったのかわからなくなるのでしょう。そういう状態で生きていくのは非常に辛いはず。)
→自分がされたことを自分のこどもにしてはいけないと、意識的に努力するする大人は稀でわたしたちの多くがこども時代されて非常に辛かったことを幼い世代に対し繰り返す。

かつて自分が受けた仕打ちに耐えて生きていくために自ら感情を遮断してしまったからこの連鎖が可能になる。
わたしたちの導き手になってくれるはずの情動、勘が機能しない。「好き嫌い」によるシンプルな意思決定ができない。無感覚のトンネルから抜け出すために自分は一体どこへ向かえったらいいのかわからない。
こうして悪循環がおき、「教育」が繰り返される。


勿論すべての大人がそうではありませんが、「余りに当たり前すぎて意識されることもない」行為が悪しき連鎖を生んでいないでしょうか。

日本の学校、組織でうまくやっていくには(そこで褒められ、重用され、歯車として機能していくには)「感情の遮断」が必要で
それに成功した人が「残虐の喜び」と呼んでもいいようなことを薄ら笑いを浮かべながら淡々とやってのける大人になる。
彼らはもう取り戻せない自分の過去に相手を間違えて復讐しているかのようだ。
自分も欲しくてたまらなかった、自ら望んで手放した訳ではない自由を、
当たり前の権利として許されて育ち、手放さずに生きている自由で自己中心的(肯定的な意味で)な、健康な感情を持った人たちに残虐の喜びをもって接することで。

「伝統的な」教育が疑問を差し挟まれることも無く続いてきたために
多くの人がその犠牲になっている社会だと思われてならない。

何故社会がこのように冷酷で無慈悲でコミュニケーション不全の人間であふれているのか、
単純に「教育」のせいではとわたしは思う。


ミラーの本の英訳からの抜粋、以前読んだ山下公子さんによる邦訳からの引用にわたしの思ったことを付け加え書いています。
酷い文ですが、上達を待っているよりへたでもすぐに伝えたほうがいいと思い、書くことにしました。
どうか拙文、お許しください。

The Truth Will Set You Free: Overcoming Emotional Blindness and Finding Your True Adult Self

The Truth Will Set You Free: Overcoming Emotional Blindness and Finding Your True Adult Self

未だに「親心」が万能

ミラーの'The Body Never Lies'を読んでいます。
少しずつ有用だとわたしが思う部分を書き出していきます。
日本では未だ「親心」は万能で、
それに異議を唱えればどんなにその親心から出た行為が理不尽でも咎められる、
異議を唱えて却って傷ついてしまうことが殆どではないでしょうか。

プロであるはずの療法家でさえこどもの味方にはならないことが多い。
そうなると療法家も他者(物理的にも精神の上でも)でしかない。
その他者に頼ることなく自分自身で問題を解決する助けになる(しかも読者を孤立させない)言葉がミラーの著作にはたくさんある。
それを抜き出していきたいと思います。

ミラーは昨年12月に亡くなってしまいましたが
彼女の言葉によって、こども時代から長く潜伏していなくてはいけなかった「本当の自己」が意識の表面に浮上してきて
ずっと不可能だった本来の自分との接触を再びもてた人は多いのではないでしょうか。

わたし自身は、どの著作か思い出せないのですが山下公子さんが訳された本の中で
ミラーのクライアントの一人が回復していく過程で福祉の仕事をしようと考えていたのが
もっと利己的な」インテリアコーディネートの仕事をすることに決めた
という一節がずっと心に残っており、その後も支えになっていました。


職場でラジオがついており聞こえてきた「人生相談」で相談を受けるセラピストの言葉が
専門的な訓練を本当に受けたのだろうかと思うほど冷淡で驚きました。
問題の只中にいて助けを求めている当の相談者は
セラピストの回答が全く役に立たないどこ路か、その「専門家」の回答に、とても傷つかれただろうと思います。

仕打ちを受けてきた人が、生育歴の影響で悪くないのに常に自分を責めてしまうとしたら
セラピストの甚だしい粗さ、無理解に見切りをつけるよりも
却って、自己抑圧を強め、苦しみが増してしまうことは大いに在り得ると思います。

和解を画策するセラピストは被害者にとって非常に有害

アリス・ミラーが自身の著作で何度も述べています。
虐待の被害者がセラピーを受ける場合
保護者との和解を画策するセラピストは被害者にとって非常に有害であり
治癒の後退をもたらすもので、積極的に避けるべきだ
と。

宗教では無条件に長上の者、保護者に従うべきだと唱えていますが
もとを糺せば宗教は支配者が民衆を操作する為に採用したもので決してこれから自由を得ようとする人のためにあるものではないでしょう。
もし宗教が必要であるなら「必要なときに手に取れるテディベアのように」(という表現をミラーはあるメソッドについて説明する際に使っていました)使うにとどめておくべきであって
宗教によってさらに自分の精神をすり減らし従属の精神状態を強めては、ますます治癒から遠のいてしまうのではないでしょうか。


よくある安っぽいヒーリングに頼って、
〜許さない限りあなたは救われない、親の仕打ちはあなたに非があったため、
噴飯ものなのは「運命」そしてここに書くのも憚られる「前世」を持ち出す等〜
もっとも大事な自分の感情から目を背けていては
自分を尚更傷つけることになるのではないでしょうか。


はっきりしている因果関係

アリス・ミラーの The Body Never Liesを引き続き読んでいる。
アドルフ・ヒトラーがユダヤ人の祖父から虐待を受けて育ちそれが後年のユダヤ人憎悪に繋がったという説は読んだことがあった。
でも三島由紀夫の生育歴は知らなかった。

ミラーが著述家とその作品から推察できる幼児期のトラウマの影響について書いている。
三島由紀夫の切腹も、アルチュール・ランボーの破滅的な生き方も、プルーストの喘息も
非情な扱い(三島の場合は祖母、父から、ランボーは母、ドストエフスキーは父....)がなければ慢性的な疾患も悲痛な最期もなかっただろう。
作家達が、では、純粋な愛情に恵まれて充分に保護された幼児期を送っていたら、彼らは創作には逃避せず「普通」の人生を送って
そして我々は彼らの芸術作品に触れられなかったか。
そうじゃない。
もっと創造的なもっと彼らの感覚の細部までを描いた作品を生産的に書いてくれていただろう。
それが出来ないもどかしさからくる怒りは破壊的なものだったろう。

問題はすごく単純だと思う。
物語や運命なんてものではなく接した保護者の態度がこどもに反映されてるだけだ。
凄惨な事件や頻発する虐待もそこから始まってる。
愛されなかったこどもの悲劇は凄まじく
「その怒りは全世界を破壊せずにはいられない」
(ミラーの著作にあった表現)。
それだけ単純なことなのに人はどうして
今すぐこどもに優しく穏やかに接することが出来ないんだ。
自分自身それを体験しなかった大人にそれはできない、屈折した心理がその単純な行為から大人を遠ざける。

不思議なのはこれだけ因果関係がはっきりしているのに
自殺者がでるようなクラスぐるみのいじめや
通り魔事件、暴力やneglectによる虐待の加害者がどのように育てられたかを
もっと調査、公表して、問題の根を見ないのかということだ。
統計はたくさんとれるだろうから
もっと「どうしてこうなったか」「どうしたらこんなことになるのか」を多くの人がしるべきだ。                           

ミラーが自著の前書きで述べている。
米国のジャーナリストが父親から受けた仕打ちで、父を許さないと述べた、そのジャーナリストのもとには
脅迫のような手紙が多く寄せられたそうだ。まだ社会は問題の根を直視する用意ができていなかった。

ミラーによれば、保護者を許すように誘導し和解を画策するセラピーは
有害ですらあるという。
親は決して「よかれと思い」やったのではなく
精神的に非情に未熟で、自分のこどもに愛情を注げなかったこと
そして親であってもそのようなことをした人間を許したり敬ったりする必要なないとはっきり述べている。

「間違っていたのはあなたではなく親や社会の方で
あなたは親を許す必要も、自分を責める必要も無い」
と言われていたら、
感受性をもった100%自分の側に立ってくれる味方がいたら、
どれだけの人が、破壊的な行為を思いとどまり悲痛な思いから救われただろう。

The Body Never Lies: The Lingering Effects of Hurtful Parenting

The Body Never Lies: The Lingering Effects of Hurtful Parenting


Alice Miller 'Body Never Lies'

感情は意識的な努力でうまれてくるのではない。
ここぞというときにこれぞという理由があって感じられる。
感情が導いてくれる。
強いられて好きになることは出来ない。
好きな振りは出来ても。

怒りや拒絶を押し殺して「いい子」でいたら、
それまで感情がそれはやめろと警告を続けてくれていても
不自然な無理をやめないでいたら、
その無理がいつか身体上の疾病として顕われてくる。

感情に従うことを覚えられなかった、許されなかった子は
ぎくしゃくとしか生きられない大人になる。
それを強いた最大の犯人は保護者だろう。次に教師、学校、ともだち・・・。
本人のせいじゃない、本人は最初は感情に付き従っていた。

自分の感情がわからないと
犠牲者のまま苦しみとともに生きていくか
自由や平穏を許せない加害者として自分がされたことをこんどは人に強いることになる。

自分の感情を操作しなくちゃいけない拘束が解けて
感情がストレートに行動に結びつく人生に移行できたら
以前の自由より規律の生活になんて誰も戻りたくないだろう。

Paths of Life: Seven Scenarios (Vintage)

Paths of Life: Seven Scenarios (Vintage)


9月8日木曜日 晴れ

その演奏は本物だったので、聴いてショックを受けたときは虚飾も欺瞞も叩きつぶしたくなって
感心してもらうための見せかけの趣味に我慢がならなくなった。
「真実の瞬間に立ち会った」、そういう体験をしたから、どこへ出ても気後れしなくなった。。
対面してる相手が浅薄なとき、怒りをもって向かえるようになった。
あの演奏を聴いていなかったら、全く違う大人になってただろう。

自伝 津軽三味線ひとり旅

自伝 津軽三味線ひとり旅

9月5日月曜日 雨/曇り

精神が内側に内側に向かっているときの幸福感を覚えたら、
自分なりの価値観で生きていくことに不安もなくなる。
生きてく上で求めるものが人と違う事に自由と充溢感がわいてくる。
こどもの頃はだれでもわかってることだけど。


優美さや繊細さを求める気持ちを失ったオトナに始終つつきまわされてると
とても自分自身でいられなくなる。
そして次第に
たとえそのために自分自身との関係がうまくいかなくなっても
そこまで下りていってあげて
おなじくらい馬鹿になってあげなきゃと考えるようになるだろう。
その方が抵抗にも遭わない、攻撃されない。
でもそうしたら
本心が望んでたものは忘れてしまうだろう。

ただそれでも、自分が何者だったかをもう一度把握しないと気が済まない子は
自ら望んでアウトサイダーになる。
いじめられたくないばっかりに本心を偽って生活できる人間を見てから
自分の内部から来る欲求にストレートに従っている人に目を向けると
いかに一方が歪で不自然か、そしてもう一方が生物として当たり前で健康かを感じる。


沈黙の世界

沈黙の世界

The World of Silence

The World of Silence


9月4日 日曜日 雨

高橋竹山に聴く ―津軽から世界へ(新版) CD付き

高橋竹山に聴く ―津軽から世界へ(新版) CD付き

90年代に聴いて、人生が変わるほどの衝撃を受けた。


「真実の瞬間に立ち会った」と思うほどだった。
強烈な感動が何よりも大切で他の事はあまり重要ではないと思うようになった。
それ以前の価値観では生きられなくなった。

津軽三味線ひとり旅 (中公文庫)

津軽三味線ひとり旅 (中公文庫)

時間が経つとそれほどの感動さえ薄れていく。

それが嫌なら、意識的に感動を取り戻して
無感覚から自分を引き戻さなくちゃ。

「年だからしょうがない」はひとつの選択肢だ。
そう考えることを選んだら、そういう人間になる。

だれもが年のせいで無自覚、無感覚になるわけじゃない。

9月2日  金曜日  曇り・雨

Bohm-Biederman Correspondence: Creativity in Art and Science

Bohm-Biederman Correspondence: Creativity in Art and Science

こどもの頃には誰でももっていた自分自身の広大な創造性の世界を
それを大人になってすっかり忘れた人に説明するのは
こちらが真剣にまじめに向かえば向かうほど
相手の耐えられないまでの粗さに傷ついてむなしくなる。
そしてその状態からの回復もエネルギーが要る。

創造性について語った本を読めば、それが心の味方になってくれる。
自分は間違っていない、このまますすんでいい。
そう思える味方が若い頃から、こどもの頃からいてくれたら
どんなに強く立ち回れてどんなにしっかり自分の意志を徹せただろう。